花の行方 3
 

 瞳子は奥州藤原の姫、総領の義理の姪だ。その瞳子を入内させるということは、奥州藤原氏の一族にかつてない栄誉を与えること。だが同時にそれは、表向きはどうであれ、奥州に叛心がないことを示す証――人質だ。
 そうした文言は一言半句も書かれていずとも、この書状が意味しているのはそういうことだ。瞳子を遠方に預けるという話に動転して、望美は気づくのがひとり遅れた。
 朝廷は、有力御家人を支配する鎌倉の勢力の伸張を怖れるのと同じく、底知れない財と力を有する奥州を常に警戒してきた。奥州はこれまでずっと、中央の政争に引き込まれぬよう適宜距離を取りつつも恭順を示し続け、少なからぬ財物も朝貢してきたが、朝廷としては証はいくらあっても足りぬということなのだろう。
 瞳子の京入りは奥州藤原氏に朝廷との強い結びつきをもたらすと共に、今後の奥州の動きにひとつ枷をかけるものとなる。そして瞳子を押さえることで朝廷は、母である龍神の神子をも押さえることができるのだ。
 神の加護を受けた戦女神、その元には必ず勝利が呼び寄せられる……。先の奥州合戦と鎌倉決戦では、九郎義経と龍神の神子の帰趨が勝敗に大きく影響したのは人々の記憶に新しい。人の妻となり子を成しても、彼女に寄せられる敬愛と畏怖の念は変わるものではなく、その血を受け継ぐ女性を帝が近くに置きたいと願っても不思議ではないが、娘の瞳子が京にある限り、神子も朝廷に不利な行動はできまい。
 また南都の執拗な追及をかわすためその生存こそ公にされていないが、瞳子の父親は平氏の直系・平重衡。つまり瞳子の祖父は先の安徳帝と同じく、一代の傑物清盛である。そんな瞳子の血筋を知ってなお帝側が入内を望むとすれば、朝廷は瞳子を通して、西海にいまだ侮れぬ勢力を残す平氏とあらためて結びつくことになり、それすなわち鎌倉への牽制にほかならない。
 一方、清盛の時代とは状況が大きく違うとはいえ、高倉帝の御世と同じように平氏の血族の女性が帝の側に上がることを忌避する者たちも、根強くいるに違いないのだ……。
 母親としては、そんな不毛な争いからは永遠に無縁のところに瞳子を置いておきたい。ただ伸びやかに明るく未来を歩んでほしいと願うのに、その身が引く血が望みもせぬ策謀を呼び寄せてしまうのかと、湧き立つ不安に望美は思わず瞳を伏せる。しかし泰衡は鼻であしらうがごとく告げた。
「朝廷の思惑など気にするな。我らは我らの考量で動くのみ。入内の利は大きいが、あせることはない。結びたがっているのは今はあちらだ。飛びつくより、うんと焦らしてやればよいのだ。
 鎌倉の背後ににらみをきかす存在、そして黄金の産地として奥州は京にとってこそ欠くべからざる力。院も我らに無理を押す愚はわきまえているはず……。こちらとて京に敵対するつもりなどない。奥州は案ずるに及ばずと公卿の面々が口をそろえてさえずれば、すぐに瞳子をよこせと強いてくることはないだろう。
 こういう時のために公卿どもには日ごろから鼻薬を効かせてある。奴らには手にしたものに見合うだけの働きをしてもらわねばな」
「泰衡さん……」
「詫び代わりに、院と京の藤原家には相当の砂金を送っておこう。何せ瞳子はひとりしかおらん、今すぐ相手を決めることもあるまい。いずれ瞳子が万寿丸と婚儀を挙げるということになればそれもかまわぬ。あと十年もすれば、花のような若夫婦となるだろう」
 胸のつかえを何とか呑み下した顔の望美に、それにしてもと泰衡は続けた。
「婚姻政策に使える姫がひとりしかいないというのも不便なものだ。神子殿にはもっと姫を産んでもらえまいか」
 泰衡の兄弟たちに姫はいない。むろん泰衡自身にもだ。真面目顔の泰衡に望美は半ば呆れ、半ば本気で怒りかけた。
「冗談はいいかげんにしてよね。政略結婚のために子どもを産むなんてとんでもないよ。そんなこと言うなら、まず自分がお嫁さんもらったら?」
 いつものように皮肉がぽんと返ってくると思ったのだが、
「……神子殿は相も変わらず純粋で、うらやましいことだ」
 どこか疲れたような笑いを浮かべて眉間を揉むと、望美が何か言う前に表情を改めた。
「では、この話は以上とする。京には万寿丸との婚儀が内々に整っているので残念ながらと返答しよう。いずれまた同じような話が来るかもしれんが、それまでせいぜい気を揉ませてやる。龍神の神子の娘、奥州藤原氏の一の姫がどこに嫁ぐのかをな。
 銀、これでいいな」
「はい。私も今、瞳子を手放すなど考えられませんし、かと言ってこの話を大過なくおことわりするには泰衡様のお考えが一番と存じます。
 それに万寿丸様に瞳子をとは、仮そめにしても身に余るお話です。親馬鹿と笑われましょうが、望美さんをのぞいては、瞳子ほど愛らしく素直でやさしく可憐で清らかな姫はこの世にはいないものと思っております。この上は万寿丸様に失礼のないよう、いっそう心して瞳子を育ててまいります」
 銀は自分で認めるとおり親馬鹿、ついでに妻についてものろけている。いつものこととはいえ泰衡はげんなりした顔になったが、相手の発言の一部について反論するのは賢明にも避けた。否定しても意味がないことを知っているからだ。泰衡は基本的に合理的な男である。無駄とわかっていることはしない。それでも皮肉気に付け加えたのは、彼の習い性というものだろうか。
「瞳子はどうか淑やかに育ててもらいたいものだ。神子殿のように闊達すぎる女性となったのでは、妻としたなら万寿丸が苦労するのが目に見えている」
「ええっ、それどういう意味?」
 望美は頬をふくらませた。
「そんなことないもん。ね、銀?」
 同意を求められ、銀は小さく笑った。
「さあ、どんなものでしょう。私自身は溌剌とした女性は大好きですので……」
「あーっ、銀ってば!」
 夫婦のやりとりはほっておき、泰衡は膝の上の姪に語りかけた。
「さて、というわけでおまえがすぐに京に行くことはなくなったが……。将来おまえの夫になる運のよい男が誰かはまだわからぬが、このまま藤原に嫁ぎ平泉を終の棲家となすのも悪くなかろう。瞳子、ここが好きか?」
 瞳子は大きくうなずいた。
「うん。やちゅひらさまのこと、だぁいすき。だからとうこ、ずっとここにいるの」
 泰衡はふいに沈黙した。瞳子はかまわずむぐむぐと菓子を食べている。ややあって泰衡は咳払いをひとつした。
「ああ、よいとも。ずっと平泉にいてもかまわんぞ。いつまでもおまえが望むなら……」
「まんじゅくんもだいすき。とうさまも、かあさまもだいすき。たっくんもだいすきなの。でもやちゅひらさま、いつもおかしくれるからとってもだいすき」
 それを聞いた泰衡の顔に浮かんだ何とも言えぬ複雑な表情に、望美も銀も思わず目をしばたたいてしまったのだった。

 

「泰衡さん、万寿くんとの話……本気かな」 
 伽羅御所からの帰り道、少し先を行く瞳子から目を離さずに望美は言った。瞳子はちょっと歩いてはこちらの道端の花に触れたり、また少し進んではあちらに生えている草をいじったりといったふうである。行きは泰衡を待たせているので寄り道はさせなかったが、帰りは子どもの好きなように歩かせていた。望美たちのほかに供がふたりほど見守っているので危険はない。
「私は存外本気とお見受けいたしましたよ。ただいかんせんふたりとも幼いですし、今後どのように情勢が変わっていくものかもわかりません」
 万寿丸様には他家から北の方をお迎えねばならないことになるやもしれませんし、瞳子を京へという話が再び出てくる可能性もあるでしょう、と銀は言った。
「そうだね……」
 万寿丸の立場となれば政略的な結婚が普通である。義理の従兄妹である瞳子ではなく、手を結びたい勢力の姫を娶ることは多いにありうる。今回の話が、瞳子を京にやらないためのとりあえずの方策というのは間違いではないだろう。
 だから実は、あの泰衡が自身の婚姻を政略に使っていないのが望美にはずっと不思議だった。むろん独身でいて、常に婚姻の可能性を示しておくことも駆け引きの一種なのかもしれないけれど、万寿丸を後継ぎに決めているあたり本気で独身を通すつもりのようにも思える。瞳子とのことは冗談としても、そのあたり望美には理由がわからなかった。
「まあ、気楽に考えておくことにするね。でも瞳子の結婚、かあ……」
 幼子は踊るような足取りで楽しそうに前を歩いている。泰衡からおみやげのお菓子ももらってご機嫌なのだ。あんなに小さな娘もいずれは誰かを愛し、結ばれる時がやって来る……。
「どんな人を選ぶのかなあ……」
 望美がぽつりともらした言葉に、銀はかすかに眉をひそめた。将来瞳子を京のみならず、どこかの家の顔も知らない相手に嫁がせよと命じられたらと案じたゆえだ。泰衡の言うとおり瞳子が奥州藤原氏の一員である限り、総領の命を無視はできない。いやならこの地を捨てねばなるまい。
 昔の泰衡なら、奥州に利益をもたらす婚姻であれば躊躇なく命じる。奥州のためなら泰衡は、どれほど非情に見える決断でも下せる人間であり、それによるいかなる非難も反発も気にしない男である。今回の話も泰衡が本気であれば、母親の望美がどれほど反対しようと、これほどあっさり引き下がったりはしなかったはずだ。 
 有能で、情に流されることのない奥州藤原氏の総領。その判断は常に冷静で的確だが、皮肉気な口調とあいまって時に傲慢とそしられ、真意を理解されないことも少なからずある。もう少し言葉を付け足せば無用の摩擦を回避できるものをと周囲は思うが、本人はかまうことはない。わからぬ者はわからぬままでいい、ただ俺の邪魔はするなと言ってはばかることがない。銀の役目のひとつは確かに、その泰衡の施政を可能な限り円滑に進めるための周囲との調整役なのだった。
 だが泰衡の内実は単なる冷徹さ、波立たぬ理性で敷き詰められているのではないと銀は理解している。
 かつて頼朝に追われ平泉に逃れてきた九郎義経を泰衡たちが庇護したのは、それが唯一奥州を守る手段だったからだ。鎌倉の言うまま九郎を差し出したとしても、全国支配をめざす頼朝がさまざまな理由をつけて奥州攻略の兵を繰り出してくるのは目に見えていた。ならば源氏の御曹司・九郎と龍神の神子の存在を最大限に活用し、鎌倉との攻防戦に勝つしか残された道はなかった。
 戦いの過程で泰衡は、意見の相違から父親の秀衡にすら刃を向け、一時は望美や八葉、銀とも敵対した。だが共通の敵を前に辛くも和解した彼らは手をたずさえ勝利することができた。源氏の支配に組み入れられることなく、一国の自立を保ち続けることがかなったのだ。それは泰衡側からすれば、奥州の保持を至上命題として行動した泰衡の冷静な選択の帰結ということになるのだろうし、周囲もそのように見ている。
 だが彼の根底には、奥州を守る戦略よりも何よりも、九郎への揺るぎない真情があったはずだ。
 泰衡はいつも、九郎がいようといまいと何ら関係ないという顔をしていたが、泰衡が必死になっていたのは、奥州の興亡以上に九郎を守りたいがためだったのだということを、ほんの数人だけは知っている。
 もしあの時、迫り来る鎌倉の軍勢に太刀打ちできないことが明らかだったとしても、泰衡はひたすら九郎を守ろうとしただろう。命も国も失ったとしても、九郎だけはと……。
 ――他者への非情さは、真実守りたいもののためには何もかも犠牲にしてもかまわぬという苛烈な決意、どんな屈辱も汚名も甘んじて受けるという捨て身の覚悟。
 そしてその身がどれほどの犠牲を払おうと、報われようとも愛されようとも願わない。すべてを己ひとりの胸に収め、誰にも何も告げることなく……。
 九郎の純粋でまっすぐな心根を愚かで甘いと嘲笑する発言を重ねつつ、決して認めようとはしなくとも本当は泰衡自身もまた――。
 それに銀のみはひそかに気づいていた。あのころ泰衡が、自分でも自覚せぬまま時おり向けていたまぶしげな視線の先に、いったい誰がいたのかを。九郎とは違った意味で泰衡の心を大きく揺さぶった少女は、銀の想い人でもあったから……。
「でも考えてみれば、泰衡さんが瞳子を遠くにやるなんて、あるわけないんだよね」
 晴れ晴れとした望美の声に、銀は驚いて妻を見た。望美はあっけらかんとした笑顔を彼に向けた。
 




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